昭和41年07月13日 朝の御理解



 御理解 第18節
 「此の方のことを神かみと言うが、この方ばかりではない。ここに参っている人々がみな、神の氏子じゃ。生神とはここに神が生まれるという事で、この方がおかげの受けはじめである。皆もその通りにおかげが受けられるぞ。」

 ここに参っておる皆が神の氏子と、皆が生神になれるとありますね。私共そこのところの精進と、そこんところの自覚と。われ神の氏子であるという自覚そこんところを、ひとつおかげを受けて行かなければならんと。それにはこの二つの修行が相まってなされていく。そこからここに神が生まれるという事であってという、ここに神が生まれる。生神とはここに神が生まれるという事であってと、ね。
 おかげが受けられるのです。椛目のまぁ私の信心の、まぁ現在これが中心だと言うてもおり、まぁ思うてもおるんですけれど。自然に起きてくる事ですね、いわゆる成り行きを、しかもそれを素直な心で大事にしていこうと。これはもう絶対生神になる一つの、どんな修行が出来てもこれが出来なかったら生神にはなれんと私は本当生まれないと思う。そこんところをだんだん出来られるようになって来てるんですね皆さん。
 もう成り行きを素直に大事にして行こうと。もうそれ一つでは生まれません。やっぱり「人世」が一つになって始めてその、生みなされる物が生みなされて来るようにです。それだけでは次にそのやはり精進が必要です。自分から求めてさせて頂くいわば修行。成り行きを素直に受けさせて頂くとという事と同時に、信心の精進。例えば皆さんが朝参りなさるという事は、これは一つの精進なんですよね修行をなさる訳です。そういうね、修行が一日中の信心生活の中に生き生きとしておらなければならない。
 信心は辛抱する事が大切で御座いますと、信心は辛抱する事が一番大切だと。あの無窮地の生活の中にここが辛抱のしどころ、と言う様な所を辛抱出来ずしては。神参り、神信心にはとてもその修行が必要だと。それが場合によっては様々ななりわいにもなって現れてくる。そういうこのぉ修行の中にですね、神様がいわば求め給う修行を素直に受けて行くという事と、私どもが精進、努力させて頂く修行と。そういう物がどの相まって、神が生まれるという事になってくるだと私は思います。
 この二つのところが相俟って行かなければ、霊徳は非常に強くなっても、神徳が受けられない、ね。あの人は立派な人格者だと言うても、それではやはり霊徳が受けられない。というような、次第でございますから、いわうる皆がここに参って来ておる氏子に、皆が神の氏子じゃと。だからまず神の氏子と、私どもでも精進すれば、生神になれるんだと。そういう私は思いを持って、それでその、生神とはこの方のことを生神、生神と言うが、この方ばかりが生神ではない。
 皆がこのようなおかげが受けられると。生神とはここに神が生まれるという事であってと仰るその、私の心の中に有り難い勿体無いというような心。そういう心が、生神の姿でございましょうが、そういうような心という物は、神様が求め給う修行を素直に合掌して受けて行こうと。成り行きを、しかも素直な心で大事にして行こうという心と、ね。もう私どもが朝参りも、さぁ今日は一つ朝参りに修行させてもらうぞと言うてその、そういう修行をさせて頂くぞというような自分が自発的に、この神様が求め給うのではない、自分から進んでする修行とが相俟って行く、ね。
 そこにいわゆる神が生まれるというおかげと同時に、おかげが生まれてくる。ね、そのおかげが生まれて来るという事が勿体無い。本当このくらいな修行で、このくらいな信心でこんなおかげを頂いてというところに、そこにまた修行の楽しみというものが出てきて。そこから私共は生神へ生神へと近づかせて頂く修行が出来る。そしてその、形の修行の根底をなすものの中にですね、あの御用という言葉がありますね御用。
 御用という事は、神様の例えば、お広前ならお広前で夕方そのぉ、お手伝いをさせて頂くという事だけが御用ではない。もう一日中が御用なんです、ね。様々な皆さんが働きよりなさる。ね、働きをするという事は、自分の周囲の、もういくらかも楽になる為に働くという事を、働くという事じゃと、こう仰るんですから。ね、皆さんがその様々、お百姓をなさる、商売をなさるちいうても朝、ね、少しでも旗が楽になる為に、もう御用をなさっておられる訳なんです。
 その、御用の根底をなすもの。今日私が二つの修行を、事を申しますのは、根底がなすものの中にですね、あの、神様が、あのご承知だという心になることです。例えばちょこっとばっか、なら御用合わせが出来ると、もう私はこげんしたと。俺がこうやって働いとるからお前だんは食べられとるとぞと、例えば主人で言うならね、主人が、俺が勤めて働いとるけんお前だんが食べられるとぞ、といったようなものを、少しでもこう出そうとする。これではもう御用になりませんです。
 ならお広前で、ちょっと何か御用でもさせて頂いた。それをしゃっちそれを誰にでも分かってもらわにゃ気が済まんという人がある。それはもう御用にならんから、おかげにならんです。誰が知らんでもええ、誰が聞いてくるでもいいのです。神様だけがご承知ならばと、神様が見とって下さるんだから。ね、こういう信心には、もうその根底をなす心の中にですね、そういう心になって、そしてそういう心で成り行きを、しかも素直に大事にさせて頂くという修行。
  同時に私共がです、結局信心好きになる。信心が好きにならにゃ出来ませんね。またはどうでもおかげを頂かなきゃ、受けたい、おかげを受けたいという、やはりあの、おかげを受けたいていう願いがある時なんかは、この表行っていうですか、自分から自発的な、もうこれお願いせないけんけん、朝参りしますといった気持ちが生まれてくるでしょう。それが大事なんですだから。
 そういうだからそれだけではいけんのです。そのそういう精進、努力をするという修行と同時にです、神様が求め給うておられる、私共の史上に起きてくる、この神様の成り行きというものをです、しかも素直な心で大事にしていくということ。その二つが、こう相俟ってこなされていくとこに、それからいわゆるここに神が生まれるという事であってというおかげが受けられるんです。
 しかも、ならそういうような、私はこの前、修行させてもらいよる、私はこげな御用をさせてもらいよるといったような事はです、ね、これはいわば人に見せてでの物であっては、せっかくの神が生まれる働きがそれで無くなって来るんです、ね。そこんところには、いわゆる神が、神様だけがご承知の世界に生き抜く事が信心だというような気持ち、が根底になからなきゃならん。そして今日私が申しますような、そのぉ言うなら、神様が求め給う修行を素直に受けて行こうという姿勢。それだけではいかん。
 私共が信心には、もう辛抱する事が一番大切でございますと仰るような、その様々な工夫をさせて頂いてからの信心修行の精進がです、成されていく。そこから私は、われと和賀心が拝まれるような心が生まれて来る いわゆる神様が与えて下さるのですよね。信心、ここんところを一つ分からせて頂いて、ね、神様が求め給う修行と同時に、私共が自発的に本気でさせて頂こうとする、そういう修行が大事。しかもその根底をなすものは、神様がご承知だからという、ね、御用と。一日中がいわゆる信心生活がです、本当の意味での信心生活が出来て来なければならんと思うですね、
   どうぞ。